フェデラル・ワンとは?


連邦美術計画 (れんぽうびじゅつけいかく、Federal Art Project 、フェデラル・アート・プロジェクトとも訳される。略称FAP)はアメリカ合衆国の連邦政府が1930年代に打ち出した芸術家支援計画のひとつ。


 世界恐慌に端を発した大不況時代における第二期ニューディール政策の一環、かつ最重要政策として、失業者救済にあたったWPA(雇用促進局)が打ち出した施策が芸術家支援計画「フェデラル・ワン」であった。この計画のうち、ヴィジュアル・アート(美術、視覚芸術)分野の計画が「連邦美術計画」である。


美術プロジェクトでは、10000点を超える絵画と18000点の彫刻が制作されました。音楽プロジェクトでは、毎週5000回もの公演が行われ、聴衆は300万人にも上ったといわれている。


演劇プロジェクトでは、4年間で新作1200本をも世に出しました。こうした文化芸術の振興によって、第二次大戦後、世界の芸術の中心がフランスのパリからアメリカへと移り、ブロードウエーミュージカルやハリウッド映画といった、今日のアメリカの文化芸術産業の繁栄をもたらした。


「フェデラル・ワン」は正式名称『連邦計画第一号』で、美術家のみならずあらゆる芸術分野にかかわる人々に仕事を与え生活を救済する役割を持っていた。以下の5つのプログラムからなるほか、芸術活動や団体への寄付に対する控除制度が設けられた。

    - 連邦作家計画

    - 歴史記録調査(もとは連邦作家計画の一部)

    - 連邦劇場計画

    - 連邦音楽計画

    - 連邦美術計画


連邦美術計画の最初の目標は仕事のない美術家を政府が雇い、美術作品を連邦政府以外に属する建物(郡役所、郵便局、図書館など)に供給し、市民に美術に接する機会をより多く与えることだった。その後、連邦美術計画はさまざまな方面に展開された。アート・プロダクション(美術制作・供給に関する企画運営)、美術教育、美術に関する調査などである。このうち、美術調査グループの出した最も重要な成果が、『アメリカン・デザインの総目録』(the Index of American Design)である。


この計画の副産物かつ最大の成果としては、人的資源の維持・育成があげられる。この計画により、多くの美術作家が生活を維持することができ、またヨーロッパからも美術家の流入があった。その中には、戦後のアメリカ美術の隆盛とヨーロッパ美術の影響からの脱出(抽象表現主義など)を成し遂げた作家たちがいる。また壁画など公共空間における大きな画面へのチャレンジにより、小さなキャンバスに描くのとは違う新しい体験を作家たちにさせたこともある。


この計画によりアメリカの街角に「パブリック・アート」と呼ばれる、記念碑とも違う、町を装飾し生活に彩りを与え、さまざまな思索を誘うための彫刻群が多く建つようになった。この成果は、戦後、新築ビルに建築費の1パーセントをパブリック・アートに使うよう義務付ける条例などにつながってゆく。


また多くの市民がポスターや絵画、彫刻、美術教育活動を通じて同時代の美術に大量に触れる豊かな経験をしたため、美術鑑賞の一般化や産業デザインの洗練など、国民のデザインに対する意識が高くなったこともある。


さらに、フェデラル・ワンは地域社会と密接に結合されて展開したため、保守派の巻き返しがあって連邦政府の支出が途絶えた後も、地域社会の支援でプロジェクトが継続された地域もあるなど、地域社会での文化の発展にも大きな効果をもたらしたと言える。


この計画によりアメリカの街角に「パブリック・アート」と呼ばれる、記念碑とも違う、町を装飾し生活に彩りを与え、さまざまな思索を誘うための彫刻群が多く建つようになった。この成果は、戦後、新築ビルに建築費の1パーセントをパブリック・アートに使うよう義務付ける条例などにつながってゆく。


また多くの市民がポスターや絵画、彫刻、美術教育活動を通じて同時代の美術に大量に触れる豊かな経験をしたため、美術鑑賞の一般化や産業デザインの洗練など、国民のデザインに対する意識が高くなったこともある。



カダモ・フェデラル・ワン始動(1)

HECP-「小さな住居計画」

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